父 逝く
29日、日記を書き終えた後、終電でダンナが帰宅。それが1時半頃だった。
洗濯をしていたので、お風呂に先に入ってから干すか悩み、シワが増えるから先に干し始めたのが2時過ぎ。丁度その時、TVから伊達公子が小学生にテニスのことを教えている番組が流れていた。
洗濯物を干し終えたのが、恐らく2時20分頃。
さ〜てお風呂に入って寝ようかな、って思っていた時、電話が鳴った。
イヤな予感がした。
案の定、母からの電話だった。
入院している病院からの電話が入ったとのこと。
ダンナが帰ってきていて良かった。クルマで実家の母を拾って病院に着いたのが3時7分。
2人部屋のもう一人はどこかの部屋に移されていた。
父はずっと眠っている。
看護婦の話だと、ちゃんと心臓が機能していないからキケンな状態だと云うことだ。
血圧は問題ないのだが、心拍が1分間に28回とかになっている。通常の人は80〜90ぐらいなのに。
その上、呼吸も1分間に5〜6回になっているのだ。通常だったら20回ぐらいあるのに。
病院の公衆電話で、父の兄に電話した。それが3時半頃。
それからずっと病室で母と私とダンナと、うとうとしながらも父を見守っていた。
4時半頃、叔父が来た。父はずっと眠ったままだ。
結局、私とダンナは一睡もしていないし、取り敢えず朝までは大丈夫そうだから、と云うことで一度家に戻ることにした。それが5時半。
帰る前に、父の顔をみたら、うっすら目を開けていたが、話しかけても大きな反応はなかった。
もう喋られなくなっているし、相づちも父には大変な運動だ。
でも多分分かっていたのかな? って思う。
それが父と顔を合わせた最期になってしまった。
家に帰って、私はお風呂に入って寝たのが7時前。
母は、家に帰っても眠れないだろうから、と云って、一端家には戻ったが、朝ご飯を食べたり色々と準備をしたりして、また病院に向かった。多分7時半頃には病院にいたはずだ。
8時半頃に電話が鳴った。が、私は全く気づかなかった。疲れていたみたいで、電話の音が全く聞こえなかった。珍しく、ダンナが音に気づき、私を起こした。
リビングにあるピッチが鳴っているはずだ、と思い走った。
電話を取ったら母だった。
8時25分に父は永眠した。
母の話によれば、臨終の時も母は傍にいたけど全く分からなかったらしい。
突然、看護婦が病室に来て父を調べたりして初めて分かった、と母は云っていた。
その時私は、全くと云っていい程気丈だった。
反対にダンナが大声を上げて泣き崩れたのが印象的だった。
ダンナに向かって「泣くなっ!」と叫びながらテキパキと準備をして9時前には病院に入った。
父は未だ暖かかった。
気を済ませたくないので、泣くまいと固く誓ったけど、やっぱり涙は止まらなかった。
それから葬儀屋の手配とか、親戚に電話とか葬儀会場での打ち合わせとか、大変だった。
結局葬儀会場などの問題で、5月1日に通夜。2日に告別式をすることになった。
5月2日は父と母の35回目の結婚記念日だ。
4ヶ月間ずっと闘病生活を送っていた。
暮れに左手が麻痺して観念した父は病院に行き、年明けに精密検査をして、肺癌だと判明。
しかし脳に転移していて余命半年と告知された。
それからずっと父の病院生活は始まり、私と母は病院に通う日々だった。
不幸中の幸いだったのが、脳に出来た癌の場所が神経を麻痺させていたので、本人は全く痛みを感じていなかったことだ。
それだけは良かったと本当に思う。
ずっと父の闘病生活を日記に記していたが、それもノート1冊で終わってしまった。
今はきっと自分のやりたいことをしているのかな?
ゆっくりと休んで欲しい。
家に居ても落ち込みそうだし、一昨日の夜は近所にいるKへー君とkちゃんとダンナの4人で外食し、今日はKへー君の車をいじっている間、私とkちゃんは新しく出来たセンター北のモザイクモール気晴らしに行ってきた。
今度はもっとゆっくりと遊びに行こうね、kちゃん。
今日はどうやら雨の葬儀になりそうだ。
